笑福亭松鶴一門は、6代目松鶴師匠から弟子を

Writer: admin Type: 友人関係の悩み Date: 2018-12-14 00:00
笑福亭松鶴一門は、6代目松鶴師匠から弟子を育てる義務は無かったのでしょうか?総数のお弟子さんがいらっしゃるのに、筆頭弟子の仁鶴さん、鶴光さん、鶴瓶さん松喬さん、呂鶴さん、松枝さん、福笑さん鶴志さん、松葉(七代目松鶴)さん等が大変苦労されたようですがその中でも、息子の五代目枝鶴さんや亡くなられた小松さんも松鶴師匠から親らしいことしなかったり、怒鳴られたりして環境が全く育たなかったと思われるようですが、松鶴師匠は、主にお弟子さんたちに誰一人も落語の稽古を付けていなかったようですが、沢山お弟子さんの面倒を見るのがしんどかったのでしょうか?因みに松鶴師匠は、酒豪で女遊びをされる方だったんですよね?補足ありがとうございました。確かにそうですよね。笑福亭松鶴100年記念ありましたね。松鶴師匠が100歳までしっかり生きてくださったらまだまだお元気に活躍が可能だと思いましたね。享年68歳は、まだ若すぎで早死にしてしまったものです。共感した0###「笑福亭の捨て育ち」と申しまして、六代目松鶴は「来るものは拒まず、去る者は追わず」がポリシーでした。ですから現在残ってる弟子(物故者は別として)の倍くらいは廃業しています。六代目は戦後絶滅しかけた上方落語を何とかしたい、落語家の数を増やしたいと五代目松鶴の遺志を継いでずっと行動してきました。弟子の育成というのは色々あって、米朝のように入門までにふるいにかけ掛けて、本人を見極めて入門させて、一から手取り足取り指導し、なんとか一人前に育てるというやり方に対して、六代目は入門させてから弟子本人は自由にやらせて向き不向きを見極わめさせていきます。ですから理不尽なことをワザと言ったり、してそいつの料簡を見極めていたんです。ですからそれに耐え抜いた人はどんな環境にも耐え抜く強い芸人になっています。どっちが正解かは結論付けはできませんが、そういうやり方があることは事実ですね。女性の噺家の入門も早かったし(全員脱落して廃業しましたが)小学生も数人いたし、現・円笑のように40歳を越してから入門させたものも居たんですね。落語の稽古は仁鶴、鶴光、福笑、松喬、松枝、呂鶴、松葉(七代目松鶴追贈)まではキッチリ対面で稽古をつけています。鶴瓶以下は誰一人稽古を付けませんでした。以下の弟子は高弟達や他所の師匠に代稽古を頼み基礎をきっちり叩き込ませましたよ。こういう事は江戸でも昔は普通に行われていたことです。昔は「稽古台」と呼ばれる売れてないけど噺はキッチリ覚えてる噺家が居たものです。売れてる噺家大御所はそういう人に基礎の稽古を任せた時期がありました。「酒豪で女遊び」これも六代目が意図的にやった、ただのイメージづくりです。お酒は家ではまず飲まなかったと弟子の証言があります。世間的に無茶な飲み方をしてるように思わす恰好だけでした。女遊びのうわさもあまり聞きません。夫人の「アーちゃん」にぞっこんでしたからね。アーちゃんと再婚するために幼かった先妻の子の枝鶴を和多田家(六代目の姉の嫁ぎ先)で養育してもらってました。六代目は枝鶴に対してこう言う負い目があったから枝鶴の極道にきつい事が言えなかったんですね。松鶴=お酒というイメージは晩年、高血圧のため脳梗塞を二回ほど発症し呂律が怪しくなり、やもうえず酒飲みが主人公のネタ「一人酒盛」「あとひき酒」「市助酒」「らくだ(酔っ払いの部分だけ)」「二番煎じ」「馬のす」などを中心に演じていたからです。今年は松鶴生誕100年、三十三回忌の年です。繁昌亭では東西の笑福亭が大結集し盛大に興行され大成功を収めました。これはひとえに弟子たちの六代目松鶴に対する「愛」があったからこそです。ナイス1
###ご回答ありがとうございました。松鶴師匠が100歳までしっかり生きてくださったら十分活躍してましたね。息子の五代目枝鶴さんもとんずらせず噺家として活躍されていたと思います。
###ありがとうございました。

 

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