創価学会の教えの中で、一切の経典の中で法華

Writer: admin Type: 友人関係の悩み Date: 2018-12-14 00:00
創価学会の教えの中で、一切の経典の中で法華経が大事だということですが、これには疑問などはありますか?共感した0###すでに創価は日蓮正宗・大石寺から破門となったカルトもどきです。もとは正しい日蓮正宗の信心でしたが、異質な池田教となり、平 成に入ってお寺から破門となりました。問題なのは、特に、破門以降に創価によって作製販売された魔障のニセ本尊です。開眼供養といわれるものがなく お寺のものに似せた鬼神入り御本尊です。毒気がものすごい。これは現在も、創価の会員に配布しており、事故や病気などを引き起こし非常に危険なものです。 ニセ本尊http://www.correct-religion.com/ryouran/html/souka_4.htmlナイス0
###この質問は投票によってベストアンサーに選ばれました!###疑問などありません。なぜなら、この創価学会の実践する日蓮仏法(法華経)で、計り知れないほど多くの会員が幸福になったからです。ゆえに日本で最大規模の宗教団体になったのみならず、世界192か国地域にまで拡大中です。他にも色々ご質問もあるかと思いますので、是非この機会に、創価学会のHPをご覧になってみるといいと思います。ナイス0
###「池田せんせーを信じる」は何なんだ?ナイス0
###法華経方便品には「斯法華經 爲深智説 淺識聞之 迷惑不解 一切聲聞 及辟支佛 於此經中 力所不及 汝舍利弗 尚於此經 以信得入 況餘聲聞 其餘聲聞 信佛語故 隨順此經 非己智分」と説かれています。「以信得入」、「非己智分」、つまり法華経の法門というのは己が知って分かるというような教えではなく、信じることによって入門できる法門だということが説かれているのです。日蓮大聖人は日女御前御返事にて、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」と仰せです。簡単にいうと、人類の可能性を信じることの功徳を、法華経は説いているのです。信心という心の変革から始まる、全世界の変革を説いているのです。日蓮大聖人は顕仏未来記にて、「彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり。」と仰せです。不軽菩薩が礼拝行を実践した時代は、威音王仏の滅後の像法の時代の末ですが、大聖人御在世の末法と全く同じ様相ということです。法華経不軽品には、「最初威音王如來。既已滅度。正法滅後於像法中。増上慢比丘有大勢力。爾時有一菩薩比丘。名常不輕。得大勢。」と説かれています。力や地位に依存していた増上慢の者達は大勢力で、常不軽という名の菩薩を下に見て、馬鹿にしていたようです。しかし、常不軽は増上慢の勢力にも怯まず、人間としての最高の行動である「人を敬う振る舞い」を貫きました。法華経常不軽菩薩品には、「我深敬汝等、不敢軽慢。所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏。(我れは深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし。)」と説かれています。これは法華経の精神を簡潔に表した、二十四文字の法華経ともいわれています。日蓮大聖人は御義口伝にて、「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云。」と仰せです。たとえ世の中のために何かしたいと思っている人がいたとしても、誰もが自分のことで精一杯で、とても人のことまで構っていられない、というのが末法であり、現代社会です。自他共の尊厳性を全く信じていない人達、日頃様々に罵倒や中傷を繰り返している人達、そういった人達は大勢います。不軽菩薩の時代は今なんです。そのような時代であるからこそ、人を大切にする哲学、人を大切にする実践、そういったものが求められているのです。誰もが心の中で欲してはいても、普段なかなかそういった心には遭遇しないかもしれません。ただし、常不軽のように「人を敬う振る舞い」を現実において実践すれば、その振る舞いは必ず相手の心を、相手の生命を根底から変えていくはずです。日蓮大聖人は開目抄にて、「法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし。」と仰せです。 法華経宝塔品には、「諸善男子 各諦思惟 此為難事 宜発大願 諸余経典 数如恒沙 雖説此等 未足為難 若接須弥 擲置他方 無数仏土 亦未為難 若以足指 動大千界 遠擲他国 亦未為難 若立有頂 為衆演説 無量余経 亦未為難 若仏滅度 於悪世中 能説此経 是則為難 仮使有人 手把虚空 而以遊行 亦未為難 於我滅後 若自書持 若使人書 是則為難 若以大地 置足甲上 昇於梵天 亦未為難 仏滅度後 於悪世中 暫読此経 是則為難 仮使劫焼 担負乾草 入中不焼 亦未為難 我滅度後 若持此経 為一人説 是則為難 若持八万 四千法蔵 十二部経 為人演説 令諸聴者 得六神通 雖能如是 亦未為難 於我滅後 聴受此経 問其義趣 是則為難 若人説法 令千万億 無量無数 恒沙衆生 得阿羅漢 具六神通 雖有是益 亦未為難 於我滅後 若能奉持 如斯経典 是則為難 我為仏道 於無量土 従始至今 広説諸経 而於其中 此経第一 若有能持 則持仏身 諸善男子 於我滅後 誰能受持 読誦此経 今於仏前 自説誓言 此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然 如是之人 諸仏所歎 是則勇猛 是則精進 是名持戒 行頭陀者 則為疾得 無上仏道 能於来世 読持此経 是真仏子 住淳善地 仏滅度後 能解其義 是諸天人 世間之眼 於恐畏世 能須臾説 一切天人 皆応供養」と説かれています。妙法の悟りがあれば、恒河沙の数ほどある諸余の経典を説くことなどは、難しいとするにはまだ足りないことです。多くの人々にとって、世界の中心にある須弥山をつないで他方の無数の仏国土に投げ置くことは難しくはありません。たとえ一歩の力は弱くとも、人間は歩き続ければ足の指で大宇宙を遠く彼方の国にまで投げることだって難しくはありません。その頂上に立って、無量の余経を聴衆に演説することも難しくはありません。ただし、人類が滅んでしまった後では、誰にも法華経を説くことはできません。虚空をその手につかんで前に進んでいくことは難しくはありません。ただし、世界が滅んでしまった後では、たった数文字の言葉ですら書くことも、受持することも、書かせることもできません。大地を足の甲にのせながら梵天に昇ることは難しくはありません。ただし、人類が滅んでしまった後では、ほんの一遍でも法華経を唱えることはできません。たとえ劫火が世界を焼こうとしていても、たった一人の心から発するたった一言の力で、干し草を背負いながらでも焼けない場所に入っていくこともできるという、全世界の宿命転換も難しくはありません。ただし、世界が滅んでしまった後では、妙法を受持してわずか一人のためであっても説明することはできないのです。8万4千の法蔵、12部の経典を人のために演説して、諸々の聴講者が6種の力を得ることは難しくはありません。ただし、世界が滅んでしまった後では、妙法法華経を聞いて理解したり意味をたずねたりすることはできません。たとえ人が南無妙法蓮華経を説いて千万億無量無数恒河沙の衆生を6種の力をそなえた阿羅漢にしても、これは有益なことであって難しいことではありません。ただし、世界が滅んでしまった後では、人間の生命を讃えたり受持したりすることは誰にもできないのです。人間の心にはそれだけの力、未来を変える力があるのです。ナイス0
###疑問などありません。一切の経典の中で法華経が大事だということは間違いありません。しかし、末法においては、釈尊が直接説かれたままの法華経では、民衆を利益する力はありません。釈尊は、その在世において、「一代聖教」といって様々な教えを説きました。しかし、その中で、真に釈尊の真意を説いているのは「法華経」です。華厳経、般若経、阿弥陀経、大日経など、法華経以外の諸経では、「二乗は成仏できない」とか、「悪人、女人は成仏できない」とかで、万人の成仏を否定しています。またそこにおいては、凡夫と仏を峻別し、凡夫が成仏するためには、何度も生まれ変わり、仏の悟りを徐々に身に付けていかねばならないという、気の遠くなるような修業が必要とされたのです。一方、法華経は、仏の生命は、実は凡夫にもともと具わっているのだと説き、誰もが平等に成仏できるという平等性を説いています。釈尊の願いは、万人の成仏です。その万人の成仏を説いている法華経が、釈尊の真意であることは明白なのです。法華経以外の教えは、あくまでも衆生を法華経に導くために説かれた方便の教えに過ぎないのです。法華経は釈尊の直接の言葉ではなく、生前の釈尊の言葉を弟子が覚えていて、それを弟子が編纂したというのは確かです。しかしだからといって、法華経が釈尊の真意を語ってはいないと否定することはでません。釈尊が直接語ったかどうかではなく、その教えが釈尊の真意にかなっているかどうかこそを問題にすべきなのです。ところで、法華経が釈尊の真意の教えであるといっても、末法の我々にとっては、残念ながら釈尊の直接説いた形の法華経(文上の法華経)では、成仏はもはや不可能になっています。釈尊在世の衆生は、実は永遠の生命の中で、釈尊から長遠の期間にわたって教化されており、久遠の昔に下種(成仏の原因の法を教えられること)を受けていて、方便の教えを経て、文上の法華経を説かれることにより、下種の法を思い出して成仏できたのです。しかし、末法の衆生は釈尊とは縁がなく、教化も受けていないので、当然、下種の法を思い出すことなどできません。よって末法では、文上の法華経では成仏できないのです。しかし、法華経は万人成仏の法である以上、末法の衆生を見捨てるということはありません。法華経の従地涌出品第15では、無数の「地涌の菩薩」が、地から涌き出て、釈尊滅後の悪世に法華経を弘めることを誓う場面があります。その具体的現れが、鎌倉時代の日本に出現された日蓮大聖人です。大聖人は、地涌の菩薩の上首(リーダー)である「上行菩薩」として法華経の予言通りに出現され、その成仏の原因の法、つまり下種の法は、法華経如来寿量品第16の文の底に秘沈されていると仰せになりました。これこそが「南無妙法蓮華経」なのです。この根源の法・南無妙法蓮華経によって、釈尊とは縁のない末法の衆生であっても成仏が可能となり、法華経の精神は完成したのです。ナイス0
###そう言ってる割には、法華経の中身をほとんど知らない信者様が多いのが疑問ですね❤️ナイス0

 

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